Fsの独り言・つぶやき

横浜市在住。一応理系卒。音楽・美術・文学・政治などをつぶやく。60歳定年退職。膝・腰痛で登山を65歳で断念。現在は街中ウォーキング。

3.11に憶う

 3.11東日本大震災から15年、当時を振り返るさまざまな報道がなされている。当時を思い起こし、教訓を語り継ぐことは大切なことである。昨年80年を迎えた1945年に終わった長い戦争までの道のりと戦争の惨禍を語り継ぎ、昨年30年を迎えた1995年の阪神淡路大震災を思い起こす。どういうわけか1954年の洞爺丸事故を語る近所の人々の会話が、函館に引っ越したばかりの3歳の私の最初の記憶である。事故や戦争や災害を思い出し、それを繰り返さずに、また被害を最小限にするためには、「思い起こすこと」「語り継ぐ」ことは何よりも大切なことと思う。

 私も、あの戦争が終わってから10年経たころの都市や人々の暮らしに残っていた戦争の傷跡、阪神淡路大震災の時の自分の対応、そして15年前の大地震の記憶はことあるごとに思い出しては反芻している。
 1995年の時は、地震そのものの記憶にはないが、テレビでの第一報の神戸市の惨状とその後の労働組合としての取り組み、ボランティアや行政支援の一環として現地に向かう組合員の送り出し、そして組合員からの報告は出来るだけ忘れないようにしている。また報道がされるために記憶の更新、訂正なども心している。
 2011年の時は、仕事中に横浜でも強い揺れとそれにともなう市民の恐怖感を目の当たりにした。大きな看板のついた危険な柱にしがみつく小学生と母親、店から飛び出してくる店員と客の悲鳴、自発的なボランティア活動で消えた信号のかわりに交通整理をする市民の姿、それを無視してパニックになって危険なことと知りながら道路を疾走する車と運転手、徹夜で道路の維持管理に精を出した組合員や職場の仲間、街路灯も消え真っ暗な道路を一人でも多く乗せようと努力しながら運行するギュウギュウ詰めのバスの運転手の努力、町内会館でお茶と便所を歩いて帰宅する人々に提供してくれた町内会の役員。横浜駅の構内にたむろしていた多くの人々の群。六本木の職場から横浜の家までひたすら歩いて帰った妻の体験。
 テレビで見た津波や火災の映像、福島原発のあるわけがないと豪語されていた事故の映像、どれもが想像の域を超えていた。
 3日後の月曜日以降、組合員のいる職場を訪れたり、連絡の取れる組合員の安否確認に忙殺されたこと、長周期振動で家具や備品の倒壊などで極めて危険な体験をした本庁舎の高層階の組合員の体験談など、今でも鮮明に覚えている。そして商店から消えた商品の数々。さいわい買ったばかりの米や食材があり、大いに助かったことなどなど。

 私は語り継ぐ、ということの大切さを体験後5年目ころから痛切に感じるようになった。意外と忘れていたり、違う場面を混同したりしている自分に気が付いた。
 語ることで、記憶を訂正し、修正し、確実なものにしていくことが大切である。そして語り継ぐことは取り立てて第三者でなくてもいいと思うようになった。
 当時のことを再放送しているテレビの映像を見ながら、妻と当時の体験を語り合い、自分の子どもと体験を共有するだけでも十分な語り継ぎである。
  退職者会の仲間との会話の中で、当時のことを何気なく振り返るのはもっといい語り継ぐことにつながる。
 むろん、語り継ぐことを始めるにはあまりに強烈な体験をしたかたはたくさんいる。強引に語らせることはない。それぞれの思いが自然と湧き出てくるまでに時間がかかるのは当然である。次第にもっと多くの人が語りだせるような社会になっていくことも必要であろう。
 今年はあらためて語り継ぐことの大切さに思い至った15年目であった。これからも私なりに、自分の生きた言葉でこれまでと同じように語り継ぎたい。