Fsの独り言・つぶやき

横浜市在住。一応理系卒。音楽・美術・文学・政治などをつぶやく。60歳定年退職。膝・腰痛で登山を65歳で断念。現在は街中ウォーキング。

ゲリラ雷雨

 10時半過ぎから親の通院の付き添い、その後、一緒に近くの駅までタクシーに乗り、昼食と買い物。たまには外に連れ出すのも必要。しかし疲れたようなので、断水解除前だったが14時に帰宅。
 団地の給水工事にともなう断水は予定よりも早く15時半過ぎには復旧した。妻も病院と昼食と買い物に付き合ってくれて、疲れたというので、16時過ぎに弁当を近くの和食の店の持ち帰り弁当を注文しようとしたら、雷が轟き始めた。雷鳴は止むことなく、弱いものの雨も降りだした。
 16時過ぎ、横浜市域には大雨(浸水害)警報、雷・洪水注意報が発令された。私の住むところはさいわいに強い雨も雹も降らなかったが、頻繁な雷鳴の中、外に出るのはためらわれた。横浜市域の南部放免の5つの区では、1万軒以上で停電も発生したとのこと。雨・雹・雷が酷かったようだ。テレビでも「横浜にゲリラ雷雨」として大きく報道されている。
 私の住んでいるところは雷鳴ばかりであり、広い横浜市域の限られた狭い範囲とはいえ、交通網は大きな影響が出た。
  17時過ぎには、雷鳴もひと段落し、雨も止んだ。予定より遅れたが、弁当を購入しに右ひざの痛みをかばいながら早足で出かけた。何とか往復30分を歩きとおすことが出来た。

 天気予報によれば、日付が変わるころ再び雨が降るかもしれないとのこと。

 明日は8時半には家を出て、組合の会館へ出向いて、退職者会ニュースの手刷り印刷を1000部ほど。A3の両面印刷で、二つ折りまで。数人が手伝ってくれる。労働組合活動は常にどんな場合でも共同作業を追及する。それが活動の幅をひろげ、行動力の涵養につながる。労働組合の卒業生である退職者会も同様のことを追及してきた。新聞作り、配布体制も同様である。

断水

 団地全体の水道工事の関係で、我が家は本日17時まで断水。親のところも同じなので、昼前から親の通院や買い物に付き添い、夕方まで外で過ごすことにした。夕食も短時間の準備が大変なので、弁当を購入する予定。少し贅沢なものを3人分。
 通院も買い物もタクシーを利用。喫茶店でゆったりとコーヒータイムの予定。

 しかし天気予報では、夕方近くなってからは雷雨の予報である。すでに雷注意報が出ている。こんな日に限って、雨とというのはつらい。

 退職者会ニュースは最終原稿が出来上がった。明日の午前中に印刷と紙折り作業。紙折り作業は機械なので、楽だが、音がうるさいのが難点。
 来週はじめの退職者会幹事会からは少し、作業も落ち着く。

おしゃべりのエネルギーに圧倒される

 午後から組合の会館に出かけて打合せ。午前中はその準備作業。
 打合せ終了後に安い喫茶店で読書をしようとしたものの、「戦争の美術史」(宮下規久朗)を紐といて5分後には心地よく寝てしまっていた。30分少々は寝たままだったように思う。
 突然に、周囲に座った二つの数人のグループの日本語の甲高い声で起こされた。その遠慮のない大声と絶え間なくそして脈絡もなく、延々と続くおしゃべりに圧倒され、憤慨して店を出た。あの轟音のような騒音を発するエネルギーはどこから出てくるのであろうか。寝ぼけた頭ではとても太刀打ちできない。頭が冴えていても無理。あれを無視して読書もできない。ゆっくりコーヒーを喫することもできない。迷惑の塊のような7人ほどであった。

 外国人のマナー云々という悪態をときどき耳にするが、日本人の方がよほどマナーが悪い、と言いたくもなる。マナーの良い悪いに民族的悪感情や憎悪を結び付けてはいけない。

 横浜駅に戻り、有隣堂で雑誌コーナーで立ち読みをしながら、先ほどの憤慨を鎮めてバスにて帰宅。夕食後は退職者会の作業を少々。
  本日は読書の覚書なども無理。

 

「戦争の美術史」から


 昨日は終日退職者会の作業。草臥れて夕方に15分ほど歩いて体をほぐしがてら安い喫茶店へ。「戦争の美術史」(宮下規久朗)の第Ⅳ章「国家は美術と手を結んだ 第一次世界大戦」を半分ほど。ゴヤから始まった戦争への告発が、19世紀後半以降ヨーロッパでは反戦画というものとして登場してきたのではないだろうか。
 第Ⅳ章の表題は「国家は美術と手を結んだ」であるが、私の意識は常に「美術は国家と手を結んだ」にある。双方向の検証が必要であることは承知をしている。しかし私は、美術家が国家の論理、とくに19世紀以降のナショナリズムの高揚のなかで、軍事礼賛へ傾斜していく「美術」の流れに興味がある。

 私の問題意識は別にして、ロシアのヴェレシチャーギンという画家の《戦争礼賛(戦争の神格化)》(1871)、《敗北 パニヒダ》(1877) 、《捕虜の道》(1878-79)には戦争で亡くなった兵士の頭蓋骨の山、膨大な戦死者の屍体が、生々し過ぎはしないものの象徴的な風景とともに描かれている。私は初めて知った画家であり、作品であるが、忘れがたい。そして具体的な戦争の場面から、戦争一般に対する批判的な意識のもとに制作されるようになってくることがわかる。

 日本では、第Ⅲ章で満谷国四郎の《戦の話》(1906)が取り上げられていた。画家の名は聞いたことがあるがこの作品は初めて接した。
 「除隊した若者が身振りを交えて戦争体験について家族の前で熱弁をふるっている。家族は興味を示すわけでもないが黙って聞き入るしかない。戦場に行った者ならではの交付やや高揚感と銃後の家族の日常との温度差、戦場の苛烈な経験と通常の生活感情との断絶の大きさを巧みな明暗表現によって浮かび上がらせている。
 多くの若者は精神的にも大きな傷を背負って日常生活にすんなりとは戻れずに、社会に受け入れられない。これは日露戦争に限らず、第二次世界大戦の戦後でも現れた現象である。軍隊経験を延々と語る先行世代に閉口した私たちの体験でもある。同時にいわゆる全共闘世代の話に閉口してしまう「しらけ世代」の嫌悪感にも似る。
 もっとひろげていってしまえば、政治の世界と日常生活との落差、乖離、そして日常生活への着地の仕方の難しさは今も課題である。

 読書時間は30分ほどであったが、それなりに収穫のある時間であった。

ジョアン・ミロ

 6日~9日までブログの更新が出来なかった。少し慌ただしく過ぎてしまった。無理にでも更新出来ないこともなかったが、焦ることもない、という気分の方が勝っていた。
 この間は、友人との月に一度の飲み会やら、退職者会ニュースの細かな訂正・修正、そして本日の退職者会内のあるブロックの総会に参加。

 そして一昨日・昨日は作業の合間に、「シュルレアリズム」の「ジョアン・ミロ」の項をじっくりと目を通した。
 ミロの1925年の《アルルカンのカーニバル》の絵解きは参考になった。
 ミロの言葉として「フォーヴィズムもキュビズムも、厳格な形式的な規則しか与えてくれませんでした。シュルレアリスムは私を造形的な探求を遥かに超えたところへ導いてくれました」。
 一方で「私はシュルレアリストというレッテルを貼られました。でも私は完全な独立、厳格で絶対的な独立を保ちたいのです。シュルレアリズムは極めて興味深い知的表現ではあり、積極的な価値があると思いますが、その厳格なルールに従うつもりはありません」と述べている。
 シュルレアリストたちが政治的に当時の共産党へ雪崩を打ってのめり込む事態の中で、政治的な振る舞いから一線を隠したことは、今の私としてはとても理解できる。昔も今も、もっとミロの思想を探りたいとも思っている。なかなかその機会を得られないのは、残念である。過去二回の展覧会の図録の解説をもう一度、読みこなしてみたい。

 さらにまた喫茶店では「戦争の美術史」(宮下規久朗)の第Ⅲ章「日本の戦争美術 中世から日清・日露戦争まで」を読み終えた。
 

図書5月号

 昨日は公園内を歩いているうちに、右ひざがだいぶ痛み、足を引きずるように歩いた。階段の下りが特につらかった。買い物までは付き合ったものの、ごく近いバスターミナルまでがつらく感じた。

 妻は荷物を抱え、先に帰宅。一人になりいつもの喫茶店で右ひざの休養がてら読書タイム。かなり混雑していた。他の喫茶店に行く気分的なゆとりがなかった。喫茶店内でたまたま通りかかった目の前の席が空いて、幸運であった。

 「図書5月号」を読み終えた。目を通したのは次の諸編。

・民主主義から政治を擁護する      杉田 敦

・野に立つ民話採訪者          清水チナツ
「民話のなかの男たちは、はぐれ者たち」だと小野和子さんは笑う。しかし、「はぐれ者たちが居てこそ、世界はまわっている」のだとも言い添える。思えば小野さん自身もまた、戦後の社会や研究の枠組みから、はぐれて生きてきた人だった。だが、はぐれ者でなければ聞き取れない声が、この土地には確かにあった。

・恐竜の絵とお話で壁を超える      真鍋 真

・「私」の居場所を探して         石原悠子

・あのかがやくイモムシ         桃山鈴子

・オータン詣              ダーリング常田益代
ロマネスクの時間枠は長くはなかった。しかし、その間に西欧は独自の石野建築空間を発展させ、建築に従属する形姿彫刻を再登場させた。

・『すうすげ』のしらべ(上)        藤田真一

・当たり前の日々を生きて暮らす     神野紗季
日常の些事もおろそかにせず俳句に詠む姿勢には、詠まなければ見過ごされてしまう時間にも価値があり光は見出させるのだ、という強い信念が宿ります。当たり前の日々を生きて暮らすことも、抗いたりえるのです。

・美文の小説家 和巳から露伴へ     武田時昌

・アーサー王伝説群と純粋母系家族の痕跡 鹿島 茂

 

アメリカ山公園・みなとの見える丘公園でバラ

 

  

 子どもの日の本日、どこへいっても混雑していそうだったが、陽気に誘われ、アメリカ山公園と港の見える丘公園に二人で薔薇を見に出かけた。日当たりが良く、薔薇が見頃の二つの公園とも予想通り人出で大賑わい。
 アメリカ山公園から例年の通りベイブリッジを臨み、外国人墓地・横浜気象台を経て、港の見える丘公園へ。墓地前のいくつかのレストランや大佛次郎記念館の喫茶店はどこも満席で諦めた。

 例年必ず見る港の見える丘公園の片隅に清楚に咲くピンクの「カズエ」は残念ながら見頃を過ぎていた。
 この薔薇の品種は、1977年の横浜米軍機墜落事件の犠牲者の土志田和枝さんの名を冠したもの。以下は神奈川新聞による。

1977年9月27日午後1時過ぎ、在日米海軍厚木基地を離陸した偵察機(ファントム)が燃料満載の状態でエンジン火災を起こし、横浜市緑区(現青葉区)の住宅地に墜落。多数の周辺家屋を炎上、全半壊させました。ファントムの乗員2人は機外に緊急脱出し、無事でした。
市民9人が負傷し、次々に病院に。「バイバイ」の言葉を残し、土志田和枝さんの長男裕一郎ちゃん=当時(3)=が翌28日午前0時40分に死亡。次男康弘ちゃん=同(1)=も同日未明、「ポッ、ポッ、ポー」と鳩ポッポを口ずさみながら息を引き取りました。
全身にやけどを負った和枝さんは皮膚移植の手術を繰り返し、長期にわたる入退院を余儀なくされました。1年半後の79年1月29日、和枝さんに隠されていた愛児の死が知らされ、慟哭の中、「2人の子を今一度だけ抱きしめたかった...」。リハビリを行えるまでに回復した和枝さんでしたが、事故から4年4ヶ月後の82年1月26日、呼吸困難により亡くなりました。


 おなかがすき、喉が乾いたまま港の見える丘公園から元町商店街に降りたものの、やはりどこも満席。ちょっとかわったカフェを見つけてようやくおにぎりと紅茶で一服した。
 元町商店街からバスにて横浜駅へ。食材を購入。妻は帰宅。私は喫茶店でコーヒータイムという贅沢をしてから帰宅。