
国立西洋美術館にある「柳」(1907-08)は、風に揺れるヤナギを描いている。まず不思議なのはヤナギの幹は描かず、垂れて揺れる木の歯らしいものが印象に残る。なかなかヤナギとわからないが、風に揺れる枝葉と池の面の波が印象的である。
解説によるとこの構図そのものは日本美術の影響ということになるらしい。そのとおりなのだろう。しかも近景が画面の上部というのもその影響であるとのこと。当時のヨーロッパの人には新鮮な印象だったのかもしれない。
解説でも触れているが、私はそのような構図の扱いもさることながら、近景の風にあおられるようなヤナギの枝・葉と池の向こう岸の緑が遠近感を喪失しているばかりでなく、区別すらされなくなっていることが印象に残った。
モネの晩年の睡蓮の連作は私は動きがあるもの、そして具象から嘲笑への架け橋のような作品が好みである。

次は「睡蓮の池」(1907、和泉市久保惣記念美術館)は初めて目にしたと思うが、とても惹かれた。「睡蓮」が描かれているとはわかったのだが、中央下から上に伸びる黄色っぽいイメの塊が何なのかすぐにはわからなかった。
解説によると池の周囲に立つポプラとヤナギが描かれているとのこと。そうするとこの黄色のような塊は夕日を浴びた明るい空が池に写っていることになる。睡蓮の横のに広がる楕円形のリズムと直角に交わる枠としてのポプラとヤナギ、そして空を模した光が、対比されるように絵かが枯れている。
描いている対象が対象から離れて、画面の色彩の対比の要請に従って配置されているように感じる。
水連は一定の形を明確に残しているが、ポプラとヤナギは背景として、視覚的な要請によって色彩の面として配置されたものである。空の光もうねるような筆致で波の敬称から解き放たれたように見える。

1914~17年の「睡蓮」(群馬県立近代美術館)は、遠近感はさらに曖昧になり、スイレンの歯の楕円と縦の筆致による薄い緑、が画面を覆い、わずかに睡蓮の花と思われるのはたった一つだけである。網膜と意識に張り付いた印象だけが頼りのような作品である。
解説では構図のまとまりも喪失しているように記載されているが、私は構図へのこだわりだけが残った作品に見えている。しかしまだ私自身が惹かれる根拠がまだよくわかっていない。むかしからなぜなのか、といつも悩んでいる。