忙しさに紛れて、ブログの更新が出来なかった。ひと段落したものの次の資料作りが控えている。活字中毒の虫が疼くが、長い文章は気分的には受け付けない。ということで、「さすらいの仏教語」(玄侑宗久、ロング新書)を初めから拾い読み。
その中の「皮肉」の項に「皮肉で済ますのは、現在の薄っぺらな自分を守ろうという姿勢」とあった。なかなか言い得ている。「次々に展開してく新しい自己に意識を集中しつづける、それが仏教的智慧であってみれは、皮肉など言っているヒマはない」そうである。これもまた同感である。
本来の仏教的な意味では、悪意の有無にかかわらず、仏教の根本議に照らして、枝葉末節で悲壮な見方を「皮肉の見」というそうである。
一般的な意味で知人にも皮肉屋が少なからずいる。そういう人とは、やはり心から打ち解けることはない。職場や組合組織のなかにもいる。親族にもいる。人間社会にはつきものの「皮肉」である。
ときどきわからなくなることの一つに、人間関係を円滑にするための有効な方法として「笑い」がある。この笑いが皮肉的なこともあるが、そうではなく心から笑いあえる潤滑油的な「笑い」の区別が難しいことがある。
この区別が難しいとき、私は常に潤滑油的なものとして善意に解釈する。それが本当の友情に変わる瞬間があるということを信じている。
同時に、一瞬ではあるが「皮肉」を通してどんな「心境」なのかと心配りをしてみせることもある。
皮肉の受け取りの仕方、解釈は、人の関係を円滑にもするし、複雑に拗れらせもする。皮肉は難しい。多用はしないほうが、良い。とくに居丈高な人には通用しない。かえって揚げ足を取られる。